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『史記』白起列伝

白起(~BC257)秦

 秦の名宰相魏冉に将格を認められ、左庶長(将軍級)に任命された。BC293年、白起は伊闕の戦いで魏韓連合軍を破り、魏大将公孫喜を捕らえた。BC292年、魏を攻め、61城を落とす。BC278年、楚を攻め、首都郢を陥落。白起は武安君を賜る。BC273年、華陽の戦いで魏、趙を破る。BC264年、韓の陘城の戦いで勝利。BC260年、長平の戦いで趙括を大破し、降伏兵を生き埋めにした。趙の首都邯鄲落城を目前に更迭され、撤退を余儀なくされた。これにより、白起は激怒し、病気と称して出仕しなくなった。范雎の進言により、昭襄王は王命を無視する白起に自決を命じた。

 

背景と影響

 白起は生涯無敗を誇り、秦天下統一を前進させた。降伏兵を殺す冷酷なイメージが強いが武力統率力だけでなく、水攻めや防塁など土木工事による人工建造物を使った戦いも優れていていた。白起を登用した魏冉の影響力は白起が活躍することで強めることとなる。秦斉の二強時代に秦は魏韓侵攻を行ったが、斉が燕の楽毅に大敗すると東征が難しくなった。これにより方針変更を行い、司馬錯巴蜀を取るとそれを土台に秦は楚へ侵攻を行った。白起は楚の首都郢を陥落。秦の強大化を恐れた韓は秦に服従路線となった。魏趙攻めを再開するが白起の後ろ盾である魏冉が失脚する。新宰相となった范雎により韓攻略へ方針が変わる。韓の敗戦で韓領上党が孤立することとなり、秦領になることを恐れた韓は趙へ割譲した。秦は上党を攻略し、長平で趙将廉頗と対峙した。三年戦局は動かなかったが趙括に総大将が変わったことにより、白起は出陣して45万の趙を撃破した。趙の降伏兵を養うこともできず反乱の恐れがあるため、生き埋めにしたとされる。白起の活躍を恐れた范雎は白起を交代させるように昭襄王に進言する。王命の無視により昭襄王との関係に亀裂が生じ、白起は処罰もかたくなに無視したため昭襄王を激怒させた。